自分の「差分」を残したいという、ささやかな欲求
インプットでいくら感動してもその人は輝かない。 | カジケンブログ
にて引用されていたこのツイートにノックアウトされた。
自分は誰か?それは、自分が生まれた世界と、生まれなかった世界の差によって定義される。柱につけた身長を刻む傷、他人の心に残る言葉やツイート、なんでもいい。死後に残った差の集合体が自分だ。よい差を残せると良いな。Make a difference. Be the change.
— 古賀 洋吉 (@yokichi) September 4, 2011
自分とは「差分」であるという定義。これはすごい。
考えてみれば、自分が生まれる前は無。そして、死んだ後も無。
死ぬときに持っていけるものは何もない。
さすれば、自分が生きていた証は、いったいどれだけのものを残せたか。だ。
「残す」というと、「財産」かと思ってしまうが、お金は残っても、使われてしまえば、それも、無だ。
そうすると、死んだ後に残せるものは、自分の遺伝子か。
幸いなことに私は、自分の遺伝子はこの世に残すことが出来た。
でもそれは、肉体レベルのことであって、魂レベルではいったい何を残せるのか?
優れた役者や音楽家ならば、自分の作品を永久に残すことができるだろう。
そこまでは行かない我々、凡人は、何を残すことができるだろうか?
人生も2/3以上を間違いなく過ぎた私が、最近また、ブログなどをやり始めたのも、もしかしたら、自分の「差分」をなにがしか残したいという、ささやかな欲求が出てきたためなのかも知れない、とふと思った。