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企業において民主主義はあり得ないと思う

サイボウズ式:「民主的なチーム」が崩壊した話 | サイボウズ式

を読んで。

このコラムでは、企業における民主主義について、コミュニケーションコストが爆発的に増えることや、「話し合い」を重ねることによって、とんがった意見がすべて丸くなってしまうことなどの弊害を上げ、

民主主義はあくまで国家統治の方法であり、そのままビジネスにおけるチームに援用すると問題がある

と言っている。

全く同感なのだが、私は、そもそも企業における意思決定の手段として、民主主義というものもの自体があり得ないだろうと思っている。

民主主義というのは、政治において編み出された方法だ。このコラムにもあるように、「ひとつの価値観による暴走を防ぐ仕組み」だ。

そして、政治における民主主義では、主権は国民にある。主権者たる国民が政治家を選ぶ。つまり、政治の結果の責任は選んだ国民にある。

結果が悪ければ、国民がまた政治家を選び直すこともできる。全ての権利も責任も国民の側にある。

一方、企業はどうか? 経営者は社員が選んでいるわけではないし、結果責任においても、例えば、会社の全てを民主主義で決めて、その結果、会社が潰れたら誰の責任なのか? もちろん、従業員の責任ではなく、経営者の責任である。

経営者が最終的に責任を負わなければいけない以上、意思決定の決定権も経営者にあるのが当然である。

従業員満足のために、またモチベーション向上のために、あるいは衆知を集めて良い業績につなげるために、従業員の意見を良く聞くことは良いことだろう。しかし、それはあくまでも手段として聞くだけであり、その意見を取り上げるかどうかは、経営者が判断するべきことだ。

では、「ひとつの価値観による暴走を防ぐ仕組み」は会社においてはないのだろうか?

それは、従業員の「辞める権利」だと私は思う。

国の場合、政治が悪くても、亡命するという例外的な方法以外、その国民でいることをやめることは通常できない。

でも、会社であれば、気に入らなければ、他の会社に移ることができる。

そもそも、企業において、「民」などという言葉を使うこと自体が間違っているんじゃないか。

従業員と企業はあくまでも、労働契約によって結ばれている関係だ。決して「民」などではない。

会社が方針を決める。従業員はそれに従って働く。結果の責任は会社にある。会社の決定が気に入らなければ辞めれば良い。

それが基本だ。

そう思うと、「企業内民主主義」などという言葉が出て来るのは、会社は「お上」であり、従業員は「下々の者」という観念がまだまだあるからかも知れない。

ここにも、企業と従業員の「相互依存」の関係があるように思える。